小栗康平 手記

4Kレストア版

2024/03/13

「眠る男」の「4Kレストア版」がようやく出来上がった。ようやくと言うのは、以前から企図していたものだったけれど、資金面で躓いていたからである。デジタル化には何百万円もの費用がかかる。それだけかけても旧作の上映でその分を取り戻すのは容易ではない。クラウドファンディングでやろうかという話も出たけれど、そういう性質のものかどうかわからなくて、そのままになっていた。それがここにきて急遽、動いた。
かつて松竹で私のDVDボックスを出してくれた角田誠さんが株式会社イクシード(以下、イクシード)という会社に私をつないでくれた。話をしてみたら、会社の代表を務める中野真佳さんのお父さんを私は知っていた。「株式会社ビジョン・ユニバース(以下、ビジョン)」という会社をやられていて「眠る男」の時にお世話になっていたのだ。
「眠る男」は私が映画で初めてCGを使った作品である。夜の川面、遠くを走る夜汽車の明かり、葬儀場の煙突から出て山の方へとたなびいていく煙などで、ごく限られたショットだったけれど、単純なマット合成だけではなくて3Dでのアニメーションもあった。
ロサンゼルス(以下、ロス)でCGディレクターをしているアートさんという知人が私にいて、そのロスでの作業と日本側とをビジョンが橋渡ししてくれたのだった。CGについては私も素人だったが、その私がこの社長は仕事のことを分かっているのだろうかと心配になるような方で、些事にこだわらない豪快な人だった。経営の勘のようなものを独自にお持ちだったのかもしれない。表参道とロスとに事務所があって、ロスのそれはびっくりするような大きな邸宅で、きれいな女の人が二人、三人、侍るようにいた。今でいえばセクハラ、パワハラの権化のような人だったかもしれない。なぜか私は可愛がられた。
私もロスに出向いて仕上がりを確認に行ったりしていたのだけれど、当時のコンピューターはなにせ動きが遅かった。ちょっと複雑な指示を出すと、レンダリングに一晩を要するような時代だった。時間があるので誘われて貸しクラブでゴルフまでやった。
三年前に亡くなられていた。イクシードにご挨拶に伺うと、奥様がわざわざ出迎えて待っていてくれた。私は初めてお会いしたのだが、ビジョンはまだあって、私がそちらをやっていますとおっしゃっていた。中野真佳さんはお父さんの存命中に別会社を起こされたのだろう。当然ですね、と私が言うとみんなで笑ってしまい、昔話に花が咲いた。そんな縁があって、今回、赤字を承知で4Kレストアを引き受けてくれたのだ。

レストアはリマスターなどとも言われていて、語義的には元の状態に戻す、修復するなどで、車や家具などをリマスターするなどと使う。ただ映画の場合、そこにはもっと積極的な意味合いがある。フィルムは保存状態にもよるけれど、年月が経つと劣化や褪色を免れない。これをデジタル化していい状態に再生していく。ただ元に戻すだけではなく、再創造と言ったニュアンスもある。
ネガフィルムに光を当てて一コマずつスキャンして電気信号に変えていく。「眠る男」は一時間四十五分の尺数だから百五分、秒数に換算すると六千三百秒である。フィルムは一秒に二十四コマ回転しているのでこれを×と十五万千二百という計算になる。近頃はスキャニングの自動化がだいぶ進んだと聞いているけれど、それでも多くは技術者による手作業になる。ロスでお目にかかってはいなかったけれど、ビジョン時代からのカラリスト、大ベテランの田嶋雅之さんが担当してくれた。
フィルムの反り、パーフォレーションの歪みからくる画面の揺れ、パラと言われているネガについた傷、やらねばならないことはたくさんある。
フィルムの持つ情報量はデジタルのそれよりもはるかに多いのだけれど、白は飛び過ぎてはいけない、黒はこの光量ではつぶれてしまう、そういったラティチュード、許容の範囲というものがあって、その先は映画館で見ても違いが分からない。でも目に見えていなくても、そこでの微妙な諧調は情報としてフィルムには記録されている。
これがデジタルに置き換わる。電気信号だから、ラティチュード、ダイナミックレンジともいうようだが、それが格段と広がる。ただ広がれば広がったことによって逆に見えなくてもいいところまで見えて来てしまったりするし、画面のバランスが壊れるところも出てくる。それをグレイディングという作業で整える。色調や諧調、コントラストなどを調整する。カラリストの腕の見せ所である。
フィルムの褪色は三原色それぞれで劣化の進行が違うらしい。あるショットの特定の色だけをいじるのはアナログでは難しいけれど、デジタルでは容易にそれが出来る。そもそも色を見せる、感じられるものにしていく原理が違っているからだ。技術的には未だよく分かっていないから間違えていたらごめんなさいなのだが、R(赤)G(緑)B(青)に振り分けられた光の波長を、それぞれ二百余りの諧調で記録していけば千六百万ほどの色が出せるらしい。RGBの諧調をさらに細かく上げて行けば億を超える色も可能とのことだ。
ただ色は、ものの形を認識していくのと違って、単独での絶対値と言ったものがない。認識というよりは、感じるものなのである。補色という言葉があるように、色は頼り合っているとも言えるし、あやふやで頼りないとも言えるかもしれない。赤を長く見ればその赤が網膜に残って次の色に引きずってしまう。カラリストの田嶋さんは、十秒以上は同じ色を見ないと言っていた。問題は、デジタルで「新たに」作り出される色を映画でどう使うかだろう。

映画はフレームで切り取られているから、両の眼で見ている普段の私たちの視野よりもずいぶんと狭い。そのスクエアの平面でなにもかもがくっきりと形を成し、色鮮やかに見えてしまっては疲れる。神経が持たない。ぼけていてちょうどいい、というところもあるだろう。あくまで描かれる中身に即して、感情に揺り動かされて、見えるものだ。
今はほとんどの撮影がデジタルで撮られている。デジタルでの撮影現場は、RAWデータでとにかく情報を漏らさず撮っていればそれでいい、というようなものに変わってきているらしい。後のグレイディングでどうにでもなると考えてしまうからである。気持ちも感情も追い求めない撮影現場とは一体どういうものだろう。
「眠る男」の「4Kレストア版」で、ロングショットの力がフィルムのときと比べて表現として格段に強くなったと感じられたところが幾つもある。屋外での能の舞台があるのだけれど、面(おもて)も衣装もひたすら美しい。背後の緑にグラデーションをつけようとして撮影時に美術部が植えた竹の林が狙い通りに揺れている。
四月になったら「伽倻子のために」のグレイディングに入る。楽しみである。

小栗康平

「小さな映画」

2024/02/20

昨年末に佐伯剛さんからメールをいただいた。忘年会と称する呑み会で前田英樹さんたちと会った二、三日後のことである。
「おはようございます。面白いことを発見しました。ビクトル・エリセは「ミツバチのささやき」が一九七三年、「エル・スール」が一九八二年、「マルメロの陽光」が一九九二年なのでビクトル・エリセも十年で一本ずつ。今回でようやく四作品目。小栗さんは「死の棘」が一九九〇年で「眠る男」が一九九六年で、この間隔は短いですが、その後の「埋もれ木」が二〇〇五年、「FOUJITA」が二〇一五年ですから「眠る男」からの三本はエリセと同じく十年ごとですね。そしてエリセより多い六本。すごい(笑)
エリセは、三本の次が三十一年ぶりですが、そこまで余裕をもって欲しくはないですが、焦る必要はないですね。」
エリセの新作「瞳をとじて」が近々公開になる、そんな話が佐伯さんからあったからだったのだろう。エリセと比べて論じられてはこちらも笑うしかないのだけれど、そうやって私の気持ちを後押ししてくださる友情はなんともうれしい。
このメンバーで呑むと話の最後はどうしても次の映画はどうするのですか、となる。雑談がここまで来ないとお開きにならないのだ。前田さんのお好きな「雪の茅舎」の一升瓶は空になっている。その夜も「小さな映画にする」が話になった。
その夜もというのは、このところ話の向きがいつも決まってそっちに向いてしまうからだ。小さなとは題材も予算規模も、である。この二つ、当然ながら切り離せない。分かりやすいところから考えれば、撮影場所を限定してあちこちに動かないこと。人物の出入りも少なくする、である。やむに已まれず、ではあるけれど、積極的な手法とする考え方だってあるはずである。
観世寿夫が『心より心に伝ふる花』の中の「「芭蕉」と禅竹」でこう記している。
「何か舌足らずで誤解をまねく恐れを感じるのですが、世阿弥や禅竹は能作の上で表面的な筋の葛藤の虚しさを感じてしまったのではないだろうか、そこで事件の経過や発展には豪末も重きを置かない抽象的な手法を夢幻能の形で創りだしたと考えられる。」
誤解をまねくかもしれないと留保する心づかいは大事にしなくてはならないとしても、「豪末も重きを置かない」と言い切ってしまいたい気持ちは今の映画界をみればまったくそのままである。

前田さんは二十分程度の短編をいくつかつなぐようなものでもいいのではないかと、ご自分で書かれた「畸人」の思想(その一・二)という文章を以前に持ってきてくださったことがあった。保田與重郎が昭和三十九年に新潮社から出した『現代奇人伝』を評したものである。有名無名の市井の人の評伝、交遊録で、映画になるエピソードがたくさん詰まっていますからと渡されたのだ。一篇が描く長さと深さがとてもいいものだった。物語なるものが動き始める前に話は切り上げられる。
前田さんが『現代畸人伝』の一つの頂を成すと紹介している個所をこの後に孫引きする。恥ずかしい話だがその畸人、前田普羅なる俳人を私は知らなかった。保田の桜井の町の家に普羅が遊びに来て、色紙や短冊に句をしたためる。「秋風の吹き来る方(かた)へ帰るなり」。「月さすや沈みてありし水中花」、こちらは保田が所望したもののようである。普羅は関東大震災で東京を引き払って越後に住んだ。老妻に先立たれたあと都営か何かの簡易住宅で死を待った、と保田は書いている。普羅が帰ると言うので保田が駅まで送っていったときの描写である。

「四辻の角には五十年近いまえから理髪屋がある。そこで少し道は曲がっているのだが、曲がりがてらにその店の鏡をふと見ると、一人とぼとぼと歩いていく、絵で見るように侘しい人の姿だった。しかもその後からまた異様な侘姿がぼそぼそとついてゆく。先が普羅さん後が自分ということに気づく瞬間を、私は遠い遠い時代をへてきたようにおもった。それは将睡時の夢の時間に似ていた。」

送って別れて家の座敷へ坐って、保田は秋風の句を口吟して泪をぽろぽろとこぼす。前田さんはそこにこう続けている。「鏡に映った瞬間、保田は、言うなれば、そこに久遠のこの時を視たのであろう。鏡がこれを視させた。現身のはるか下の方で、この今もゆき続ける時の流れが在る。普羅さんは、今日また、その流れの底へ帰るのか。」
いかにも見事な画像である。現在と過去とが重なって、そこにあることがくっきりと分かる。しかしこれが撮れない。映画では撮れない。「流れの底」が写らない。見えていることのサイズが違うのだ。あくまで文学が捉える描写である。「書く人の内深くにある寂寞とした祈りが響く」(前田)ばかりである。
「傑出した批評眼の孤独を、これほどまで生々しく感じさせ(中略)他人への優しく濃やかな筆遣いは、そのまま不気味な霊異の闇に入り込み(中略)近代小説のはるか上位に立つ批評の文学の威力」と前田さんは書いている。
その「畸人」の思想が本の後半に入って『保田與重郎の文学』という大著が昨春、上梓された。三十七章、八百ページに近い。時勢から言えば尋常ならざる本である。ここまで保田の全貌を論じた本はない。この大著、読みこなすにはまだまだ時間がかかる。
私は保田のデビュー作となった『日本の橋』を学生時代に読んだ程度で「芭蕉」も戦後の「日本に祈る」「絶対平和論」も未だ手付かずである。私に力がないから前田さんの提案はお流れになり、また「小さな映画」を探すことになる。

「FOUJITA」の照明技師をやってくれた津嘉山誠さんは、若いころ農村で何百頭もの牛の世話をしたり、小川伸介プロで山形の合宿生活を経験されたりもしてきたらしい。不思議なやさしさをもった人で、世田谷の住まいのテラスには野良猫やアライグマたちが集まってきているそうである。
会えばいつも、監督、早く撮りましょうよ、である。撮ってもなあ、小屋があかないよ、と言うと、ネットフリックスではだめですか、と聞かれる。確かにそういう流れが世界的にもなってきている。ネットフリックスの日本事務所が出来て間もないころに一度、訪ねたことがある。日本の代表者がアメリカ人で、その奥さんが「FOUJITA」の製作をしてくださった井上和子さんの大学の後輩、よく知っている人だった。いわば井上さんと私は二人して表敬訪問したのである。その後、井上さんがその奥さんをお呼びして一席を持ってくれた。オウム真理教をやれないでしょうかと逆に提案もされたのだけれど、私は具体的にはなにも動かなかった。
ネットフリックスよりもNHKはどうだろうか、ラジオ深夜便ならぬ映画深夜便、と私。出演はしたことはあるけれど、実際に番組を聞いたことはない。年配者が深夜なのか明け方なのかは分からないけれどよく聞いているらしい。老いをテーマにして短編を続けていく。面白いと思います、私がいい俳優さんをリストアップします、と津嘉山さん。その津嘉山さんからは後日にメールがあって、いいと思っていた俳優さんはもうみんな亡くなっていました、だった。この企画、いまだ提案にも至っていない。

佐伯さんはご自分でも書籍の出版をされているので、流通の仕組みをよく知っている。それがあまりにもひどいもので、ほとほと嫌になって今は直販されている。映画は書籍の製作と比べて額が一桁も二桁も違うから書籍とはまた別な、呆れかえるような慣習が配給、宣伝の流通部門でまかり通っている。外資系のシネコンも入ってきてはいるけれど、大手の興行では旧態然として独占禁止法に触れるような圧力もかかっている。
カンヌで映画祭の期間中にどれほど優れたパブリシストをつかまえられるかが勝負なんです、といった話を聞いたことがある。パブリシストとは平たく言えば広報担当者のことで、メディアとキーパーソンとをつなぐ人らしい。プレスリリース程度のものは書くのだろうけれど、批評家ではない。要は人脈を持った人ということになる。カンヌではそうした人に何百万円のギャラを支払うという。日本でも新作の試写の呼び込みはそうした人たちがやる。試写室の入り口で見張っていて悪口しか書かないような奴が来たら、お前は見たいのなら金を払ってみろ、と私などは言って追い返してみたいのだが、もちろんそんなことはできていない。「FOUJITA」のときにこれもNHKなのだが、「ブラタモリ」という人気番組があって、なんとかそこに取り上げてもらってタモリにぶらぶらしてもらえないものかと画策したらしい。当然のことながら成立はしない。そんなことまでして映画を公開までもっていく。冷静に考えてみると常軌を逸しているとも言えなくもない。どれだけパブリシティが多く出たか、それを「露出」という。宣伝費のない映画はそこが頼りだ。しかしそのパブに今どれだけの書き手がいるのか。だったら極小の規模で映画を作る、国際映画祭なるものも劣化していきているのだから当てにしない。自前で見せたい人だけに、見てほしい人だけに、と考えるのは横暴だろうか。

「死の棘」の冒頭のカットとラストのカットは、ともにミホとトシオが正面を向いている。でも光はまったく別な作られ方をしていましたと津嘉山さんが発言されて、そこにかさいあさこさんという方がいらっしゃった。「根の水」という詩集を自費出版されて私もそれをいただいている。北千住での私の特集上映まで、映画は佐藤真の「阿賀に生きる」しか見ていなかったらしく、「伽倻子のために」を見て「かなしくて、うつくしくて、かなしくて、まいりました」とメールを下さった人だ。
津嘉山さんが指摘していた同じところを文芸評論家の佐藤泰正さんが新聞に映画批評として書いてくれていた。二人は正面を向いているけれどラストのそれは祭壇に向かっている、と。原作者の島尾敏雄さんも「死の棘」で信仰のことについてはなにも触れていない。しかしキリスト者になってからまとめられた小説である。なんとか祈りの一端には触れてみたいと思っていたけれど果たせることではなかった。
病院でミホがいなくなってしまって、死んではいないかとトシオが病院裏の貯水槽を竿でかき回すロングショットがある。夜間である。ここは神の広場として撮りたい、そんなことをスタッフに言ったことはあった。でも映画で信仰に触れられた感触はなかった。それを当の本人が思いもしなかったところから、祭壇とおっしゃって下さったのだ。かさいさんがそれをぜひ読みたいという。佐藤さんは梅光大学院におられたので山口の地方紙だったと思います、今はもう手に入らないかもしれないけれど、スクラップが残っていたと思うので帰ったら探してみますといってそのままになってしまっていたら、そのかさいさんから「佐藤泰正著作集 十二巻」を古書で見つけ出したらそこに「映画「死の棘」を観て」という一文が収録されていましたとメールが来た。でも初出は毎日新聞で、祭壇という言葉そのものは使われていなかったけれど、もう十分です、ありがとうございました、お手を煩わせないでくださいとある。かさいさんはキリスト者かもしれない。
 私は私で、そうかなあと半信半疑なまま、スクラップをひっくり返してみたが、探し物は出てこない。滑った転んだを含めて有象無象のパブなるものが山のごとくにあった。こんな言い方をしては叱られてしまうけれど、それらも今となってはごみの山である。公開当時というのはこんなふうにあれこれと引きずり回されていたのかと、改めて映画の仕組みの怖さを思った。
 結局、肝心の地方紙は出てこなかったのだけれど、佐藤さんから頂いた手紙が出てきて、なんと私は佐藤さんの大学に呼ばれて講演をしていたのだ。もしかしたら食事なりの席で話が「死の棘」に及んで、佐藤さんから祭壇の発言があったのかもしれない。それを時が経るとともに毎日のそれに私が勝手に繋いで捏造していたことになる。人の記憶は当てにならない。

さてここからがエリセの「瞳をとじて」の感想である。大いなる期待をもって見たのだが、残念ながら拍子抜けするほど想像していたものとは違っていた。私の期待はどんなだったのか。
「ミツバチのささやき」の直截さは今もって忘れ難い。少女アナが村に来た移動映画で「フランケンシュタイン」を見る。アナが見た初めて映画だったのだろう。虚構と現実とがないまぜになって、アナの内で世界なるものが形作られていく。スペインでの内戦の傷跡らしきものがアナの家庭にもある。兵士が一人逃れてきてアナが助けるけれど、射殺されたようでもある。家の佇まい、路地、荒れ地、じつに端正な画像だった。
その監督が三十何年もして長編の映画を撮った。私はエリセがどんな思索を深めてくれたのかと楽しみにしていたのだ。古井由吉さんの最晩年の作品のように、モノローグがいつしか時制を変えていて、モノローグもダイヤローグに置き換わっている、そんなふうなもの。でもエリセの映画はただの会話の劇だった。
元映画監督(この言い方は他人事ではない)が撮影途中で失踪してしまった俳優を探す話である。その中断してしまった撮影以来、映画監督から退いて、その後は小説も書いたりしたようだけれどそれも売れたふうでもなく、今は雑文を書いたりしているらしい。その元監督がテレビの「未解決事件」という番組に出る。俳優は何故いなくなったのか、失踪当時は海への投身自殺という説もあったようだけれど遺体は上がっていない。真相を追いかけたいという思いもあったのだろうけれど、テレビ出演の動機はそこで使われる映画の部分使用、その二次利用料が入るからだ。些か自虐的である。
「未解決事件」がオンエアになって、見た人からその俳優によく似た人がうちの老人看護施設にいると連絡がある。それをきっかけとして過去、現在がさまざまに付き合わされていくのだけれど、俳優は何故いなくなったのかは分からない。施設に運ばれてきたときには記憶を喪失していたからだ。元監督は未完のその映画を見せる。それで記憶が戻ることを信じて、である。
そうやって映画は話そのものを追っていくことになるから、場面、場面でいったいどこで話を切り上げるのかと心配になる。切り上げられないからそれぞれのシークェンスはフェードアウトされていく。小津さん(小津安二郎監督)はそうしたやり方を小手先の技術であって映画の誤魔化しだと嫌った。
ショットはその切れ際、フレームの切れ際、終わりの切れ際、つまりはそのショットの時間の切れ際と、次に来るショットの空間と時間との接触、つながり方にこそ、映画言語のなんたるかが潜んでいるのではないかと私は考える。
少女アナを演じたその人がアナという役名でそのまま出演している。「私はアナよ」と「ミツバチのささやき」と同じセリフもあった。私は映画フリークではないから映画内映画のどれとどれとが関連してなどといったことを探る愉しみをもたない。

話は変わる。昨年、久しぶりに岸部一徳と会って飯を食った。タイガースのメンバーが集まってジュリーの七十五歳(!)の誕生日コンサートを埼玉アリーナでやるのだという。埼玉アリーナは三万人ほど入るのだけれど、前回、ここでのコンサートをジュリーはドタキャンしたらしい。約束と違ってチケットが半分しか売れていなかったからだそうだ。そのリベンジもあって少しでも応援できればと、インタビュー嫌いの岸部が週刊朝日のロングインタビューを受けた。廃刊までの最終三号連続のそれである。
タイガースとしてはもうこれが最後になると思いますと言うので、だったら見せてよ、というと、本当来ますか、だったら席を取りますよと言って、ボックス席を一つ用意してくれた。そのことを家族に話すと小学生二年のチビたちも含めてみんなが行くという。家族総出のお出ましになってしまった。
埼玉スタジオと埼玉アリーナの違いも私は分かっていなかった。大宮から一駅なのだが、ホームの雰囲気がなにやら違っている。年配の女性たちが圧倒的に多いのである。そうかそういうことなのかと、改めてその日の催しの中身を知った思いだった。
ジュリーはまだ声が出ていて、いいコンサートになった。聞いたことのある曲、程度にしか私は知らないのだけれど、歌がいいところに差し掛かると、車椅子の人も立ち上がって両手を左右に揺らす。ボックス席はゴンドラのような高い位置にあるので全体が見下ろせる。会場そのものが揺れているように感じられて、歌の力は凄いなあと感心させられると同時に、なにやら群衆の中の老人の孤独といったことが頭をよぎって、胸が熱くなった。
週刊朝日のインタビュー記事は岸部くんの半生を辿っていて、いいものになっていた。編集長が書き、マネージャーも頑張ったのだろう。岸部はあらためて自分が音楽少年だったことを思ったという。そのことを気づいたときに、ああ、自分は人にいい俳優だと言われていて、その像そのままにいい俳優であろうとしていないか、そうではない、みんなから忘れられるようにだんだんと消えていくようであればいい、そんな発言もあった。
コンサートの感想とお礼もあって新宿で飲んだ。消えていこうとする岸部くんそのものを主人公にして映画が考えられたら出てくれるかねと質問した。もちろんいいですよ、と即答。でもあと二年くらいですかね、だった。うーん、あれもこれもいまだなにも煮詰まらない。
夜のニュースで関東地方に春一番が吹いたと報じていた。私の住む北関東でも強い風が予報されていたがさして吹かなかった。ところが夜半から明け方にかけて怖くなるような猛烈な風が吹いた。
夢を見た。私は撮影している。

映画の「自由」

2024/01/19

私はヴィム・ヴェンダースと同じ生年である。若くしてドイツニュージャーマンシネマの旗手の一人としてデビューして以来、今日まで数々の映画を残してきたヴェンダースと比べられるようなものは私にはなにもないが、年数だけは同じく数えてお互いにいい歳になった。
老いれば映画が撮りにくくなる。普通に考えればそうである。映画のお客さんは相対的に若い。日本では顕著にそうだ。年配者が夕食を終えて夜の上映を見に行くなどという文化もこの国にはない。
青春映画は掃いて捨てるほどあるが、老年映画は成立しにくい。そういう事情もある。映画の、写し撮るという原理の難しさがそこにはあるかもしれない。在ることを撮るとは、在ることを肯定していく行為だから、どんないのちの様にも直接に向かい合わなくてはならない。その押し合いというか力比べに負けてしまうと、監督という行為は成立しない。
新作の「PERFECT DAYS」はどうだったのか。私にはヴェンダースのやりたかったことが見えないまま、後味の悪さだけが尾を引いて長く残った。
映画をたくさん見ている友人に感想を聞くと、あの内容で一本の映画を作ってしまい、しかもアカデミー賞の日本代表なのですから、日本映画はもっと頑張らなくてはいけませんね、だった。それはその通りで返す言葉もない。
あの内容でという事情はこうである。映画より前に、著名な建築家たちに声をかけて渋谷区の公共トイレを新しくしていく取り組みがあった。発案者はユニクロの創業者のご子息で、もともとは東京オリンピック・パラリンピックの「おもてなし」として考えられたものだったらしい。そのオリンピックはパンデミックもあって惨憺たるものになった。オリンピックなるものの意味のなさが露呈した大会だったと言ってもいい。だからなのかどうかは知るところではないけれど、この建築的にも面白いトイレを周知してもらうために、ヴェンダースに短編映画を依頼したのが始まりだったと聞く。それが一本の劇映画にまでになった。
しかしそんなことはじつはどうでもいいことだ。経済を含めて映画の企画の出発はどんなことだってありうるからだ。きっかけはなんであれ、問題はその映画がどう現出したか、である。監督が映画なるものをどうこの世の中に現れ出したか、である。
ヴェンダースは役所広司が演じる清掃作業員に平山という名をつけている。スタッフもキャストもみんなが平山さんとさん付けして呼んでいたらしい。言わずと知れた小津映画の役名で、笠智衆がいくつもの作品で演じてきたものだ。敬意を表しては分かるけれど、冗談の域を出るものではない。
ヴェンダースがこれまで基本としてきた映画のスタイルは、ロード・ムービーである。世評の高かった「パリ・テキサス」を私は好まないが、「ベルリン・天使の詩」も天使たちが旅するロード・ムービーだと見れば納得がいく。しかし平山は旅する人ではない。一つ所で生きていく生活するものだ。小津さんのいたこの日本を旅しているのはヴェンダースで、平山ではない。ではそのヴェンダースに今の日本はどう捉えられたのか。なんともステレオタイプなままで終始していなかっただろうか。
役所広司がカンヌで主演男優賞を獲ったのは慶賀すべきことで、貰えるものはなんでも貰えばいいのだけれど、あの平山の演技でいただくのは、当の本人、面映ゆくなかったかと心配になる。
というのもこの清掃員、平山の役柄は誰もが当たり前に抱える日々の煩雑さを消し去ることで作られているからだ。人物としての根に降りて行く道が最初から閉ざされている。人生のなにかを捨てて温和に単調に日々を過ごしているのではなく、トイレの清掃員を清々しく描くために、暮らしの些事は捨て去られなくてはならないのだ。役者に出来ることは人柄よく、だろうがそれだけでは表層にすぎる。
多くのコマーシャルがいかにも平穏な日常とともにあるかの如く見せかけられているけれど、暮らしの負のリアリティは持ち込まれない。そんなものを連れてこられては購買という夢を壊してしまうからだ。日々のルーティーンが決まって繰り返されるのは、それがつつましい生き方だからではなく、「PERFECT DAYS」に宣伝として条件づけられていることだったとしたら、身もふたもない話だ。目的を持った広告としての画像と、映画のもつ根源としての自由を私たちは見分けられなくなっている。

私は篠田正浩監督の「心中天の網島」「卑弥呼」の二本に助監督としてついている。小栗くんの師匠は浦山(桐郎)だろうから小栗くんは私のところを飛び出ていった不良息子だ、とそう言って目をかけてくれてきた。その篠田さんは「スパイ・ゾルゲ」を最後にして映画を撮っていない。ゾルゲは篠田さん七十二歳の時の作品だからもう二十年になる。
いっしょに昼食をとったときに篠田さんからこんな言葉が洩れた。もう僕の映画のお客さんはいない。これほど途方に暮れ続けたことはこれまでにないと、振り返ってそういうのである。すべて徒労、そんな発言もあった。
篠田さんの言葉を正確に受けとめられたのかどうかは分からないけれど、二進も三進もいかなくなっていた私にも同じ感慨があった。私は篠田さんより十歳以上も若い。でもそうだった。映画監督たる自分はいったいなにをしてきたのか、なにが出来てきたのかと、無惨なままの自分を思うしかなかった。それはいまも変わらないかもしれない。
篠田さんは烏山カントリークラブというゴルフの名門コースの理事長を長く続けられてきた。若くして交通事故で亡くなった佐田啓二を偲んで映画人がよくコンペをしてきたところらしい。赤いポルシェを駆って日帰りでプレイするほど篠田さんはお元気だった。それが年齢とともに脊柱管狭窄症を抱えるようになって長い距離を歩けなくなった。ゴルフという競技は正式にはカートに乗ってはならないものらしい。自分の足で歩いてホールアウトしないと正規のスコアとして認められない。だから最近、理事長職を降りたという。
ゴルフをやらない人にはこういう話ではなにも伝わらないだろうし、なにを能天気なことを言っているんだと叱られそうだが、私にはわかる気がした。映画監督という仕事の体感的な行き詰り方は似ているのかもしれない。
ヴェンダースは平山さんを演じる役所広司をドキュメンタリーのようにして撮ったと発言しているけれど、実際リハーサルもなく撮られたシーンが大半だったかもしれない。トイレ掃除をフィックスのカメラで撮っても仕方がない。演技というものではないからだ。手持ちのルーズな画が積み重ねられていくだけで、役者には演出家のどんな圧力もかかっていない。ご自由にどうぞ、である。
ラストシーンがいい例だ。軽自動車で仕事に向かう平山を単独で捉えたバストショットが長々と続く。セットだろう。人物の左右のわずかな抜けに窓外が流れていく。平山はいつも車でカセットテープを聞く。少し古い曲である。なにを思うのか、平山は泣き、笑い、あるいは充足して日々を振り返るのか、まったくの一人芝居である。役者の力がないと成り立たないショットではあるけれど、だからと言ってその芝居にこころが動かされたかと言えば、ない。微塵もない。そこが問題なのだ。見ている私自身のどんな悲喜にも触れてこない。芝居が方向づけられていないから、ニュートラルに中空に浮いたままだ。この同じショットを別な映画にそのまま持って行っても成立するだろう。そんな代替可能な演技などというものがあるはずがない。役者に映画を丸投げしてはいけない。映画はフレームという精神の枠で成り立っているからだ。

事務局からのお知らせ

»一覧
『伽倻子のために』『眠る男』4Kレストア版劇場公開のお知らせ
2024年04月06日
【速報】『伽倻子のために』『眠る男』4Kレストア版の劇場公開が決定!
2024年04月01日
小栗康平監督×建築家・村井敬さん、トークイベントのお知らせ
2023年08月14日
小栗康平作品、特集上映のお知らせ
2023年07月14日
『泥の河』上映のお知らせ
2019年07月05日
»一覧

手記 バックナンバー