ゆーぱの部屋 ~幸福の科学の教えから~
幸福の科学の教え(大川隆法先生の書籍)で、みなさまの人生の悩みや疑問などを解決するお手伝いをします。
 



宗教には、正しい宗教と間違った宗教があるって言うけど、それって、自分の宗教だけが正しいって話じゃないの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『新生日本の指針』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 宗教には正邪があります。(中略)
 ただ、宗教の正邪を分けるということは、宗教の多様性を否定せよということではありません。私は、いろいろな個性を持った宗教が、日本にも世界にも数多くあることは、よいことだと思います。宗教が、よいところをお互いに出し合って、人びとを導いているという姿は、実に頼もしいものだと思います。宗教の正邪を分けることは、その多様性を否定するということではないのです。
 また、宗教の正邪を分けることは、宗教のいろいろな教えにおいて次元の高低を知ったり、高等宗教と初歩的な宗教とを分けたりすることを、否定するものでもありません。
 このように、宗教の多様性や、程度の違ういろいろな宗教が現に存在しうるということについて、私は肯定的見解を持っています。
 この地上を去った天上界においても、そのように、さまざまな人たちが、さまざまなグループをつくって、生活をしています。
 しかし、天国と地獄だけは、はっきりと分かれています。これが、宗教として外してはならない一線なのです。正教と邪教は、ここに線を引くべきです。
 邪教なるものは、悪魔や悪霊といわれるものに取り憑かれて、多くの人びとを狂わせている教えです。これを極力、小さなものとし、正しいものを推し進めることが、いまの日本の宗教界を浄化し、人びとを幸福にし、迷った人びとを救うために、ぜひとも必要なのです。
 宗教の正邪を見分けることは、難しいかもしれません。しかし、一般の人にもわかるように、簡単にいうならば、「その宗教が社会に広がっていくと、犯罪が減っていくようであれば、それは正しい宗教である。逆に、その宗教が社会に広がっていくと、犯罪が増加するような宗教は、間違った宗教である」ということなのです。
 その宗教が広がることによって、犯罪が増加するならば、その宗教団体のなかにも、犯罪を数多く重ねている人たちがいるはずであり、そのトップに立つリーダー自身の心のなかにも、犯罪を志向するものがあるはずです。それを見分けなくてはなりません。
(24~29ページ)

宗教には正邪があるが、それは、宗教の多様性を認めないとか、高等宗教と初歩的な宗教を分けないということを意味しない。

しかし、この地上を去った世界においては天国と地獄がはっきりと分かれているのだから、正教と邪教は、ここに線を引くべきである。

簡単に言えば、社会に広がれば犯罪が減っていく宗教は、正しい宗教であるが、逆に、社会に広がっていくと犯罪が増加するような宗教は、間違った宗教である──。

なるほど、なるほど、です。

たとえば、私なりに学校で考えてみると、学校の正邪を分けることは、国公立系があったり私学があって様々な特色のある教育をしていることや、小・中・高や大学・短大があることを認めないわけではありません。

しかし、きちんとした学校でもないのに、英会話学校だと称するだけの詐欺は間違っているのだ、とでも考えれば、理解しやすいかもしれない気がします。

そして、最初はもちろん小学校からですが、早く初等教育は終えて上級の学校に進んでほしいというのも、宗教と学校では、似ているのかもしれないなどと、私は考えたりもしているのです。

新生日本の指針: 新時代への国家選択 (OR books)

『新生日本の指針』

 大川隆法著


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どうしてこんなに、悲しいことが多いんだろう。信仰を持ってても、悲しみがなくならないのは、なぜなんだろう? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『愛から祈りへ』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 生まれ落ちてより、人間は両親の愛に恵まれて、すくすくと育っていくものですが、やがて、片親が亡くなったり、身内に不幸があったり、家庭が経済的に傾いたりして、悲しみに打たれることがあります。
 成人してからも、たとえば受験や就職に失敗したり、恋愛に失敗したりと、さまざまな失敗を通して、心に傷をつくっていきます。社会人として働くなかにおいても、自己実現の難しさ、多くの人びととの調和の難しさを感じます。
 家庭においても、苦しみや悲しみがつきまといます。子供のできない悲しみ。子供ができても、満足に育てられない悲しみ。家庭内の不調和。やがて老いるにしたがって、老いのさみしさというものも、ひたひたと押し寄せてきます。
 しかし、悲しみの時というのは、魂を光らせるべき時として、あえて用意されているのです。
 たとえば、刀が真っ赤に焼かれ、たたかれ、水に入れられて、焼きを入れられるように、みなさんの魂も、悲しみという名の水のなかを、いくたびか、かいくぐることによって、鋼(はがね)の剣(つるぎ)となっていくのです。
 したがって、悲しみの時は、みなさんの魂が試されている時であり、みなさんの勇気が試されている時であり、みなさんの人生が一編の詩となるかどうかが試されている時なのです。
 人生の悲しみのなかを、いかにほがらかに生きていくか。いかに美しく生きていくか。いかに芸術的に生き抜いていくか。そこに、人間としての真実の姿があるのです。
(65~66ページ)

悲しみの時というのは、魂を光らせるべき時として、あえて用意されている。

それは、魂が試されている時であり、勇気が試されている時であり、人生が一編の詩となるかどうかが試されている時である。

そのなかを、いかにほがらかに生きていくか、美しく生きていくか、芸術的に生き抜いていくかに、人間としての真実の姿がある──。

そうなんですね。

悲しいときほど、自分は成長しているんだ。

そう知ったとき、また立ち上がる勇気がわいてくる気がします。

この力強い真理の言魂に触れて、改めて私も力がわいてきたと思っているのです。

 

愛から祈りへ ―よみがえるヘルメスの光― 『愛から祈りへ』

 大川隆法著


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心ってのは頭にあるんだ、脳の作用だなんて、得々と言ってまわってる人がいますが、ほんとなのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『幸福の科学の十大原理(上巻)』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 「心」は、人間の魂の中核部分なのです。中心部分なのです。「魂」と「心」は、物体的に見てまったく重なるものではありません。「霊体」はまた別にあるわけです。その中心部分に「心」というものがあり、それを外面的に霊視すると、私の目には、ちょうど直径三十センチぐらいのボールのように見えます。そうしたものが中心にあるのです。そして、人体と同じ大きさの魂が、肉体のなかにすっぽりと入っています。
 さらに、「霊」という言葉があります。では、「魂」と「霊」とは、どう違うのでしょうか。
 結局のところ、「魂」ははっきりと人体的な形を取っていて、その人のアイデンティティーがある部分を「魂」と呼んでいるわけであります。
 ところが、「霊」の場合、定義としては「魂」よりさらに広くなってくるのです。
(175ページ)

そうですよね。

もし、心や魂や霊というのが、実体としてないのならば、つまり“脳の作用”なんて話だったなら、悲しいときに胸の方からなんだか涙がこみあげてきたり、感動した喜びが胸の方から来るのは、まったく説明できませんよね(173ページ)。

心があって、魂があって、霊もある。

このあたりが、スピリチュアルな世界を理解するための最低限の基礎知識のひとつなのだと、改めて私は思っているのです。
 

幸福の科学の十大原理(上巻) ーエル・カンターレ「教えの原点」ー (OR BOOKS) 『幸福の科学の十大原理(上巻)』

 大川隆法著


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リストラで無職になっちゃったところに、突然、別れ話なんだよ。もう、最悪だよね? なーんて悩み抱えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『幸福の革命』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 明るい未来をつくるには、まず心の持ち方を固めなくてはなりません。積極的で建設的な方向へ心を常に向けていれば、そうした方向ですべてが展開していくのです。(中略)
 未来を信ずる心、「最終的に未来は明るい」ということを信ずる心が非常に大事なのです。
 未来を信ずる心があるならば、個人にとって大切なのは、あまり取り越し苦労をしないことです。(中略)
 また、過去のことを引きずって悩みすぎるのも問題です。
 未来を信ずる心があれば、やるべきことは現在ただいまにしかありません。現在ただいま、きょう一日のなかに、未来において成功するための秘訣があるのです。「きょうも一歩を進める」ということが大事なのです。
(39~44ページ)

取り越し苦労をしないこと。

過去のことを引きずって悩みすぎないようにすること。

そして、未来を信ずる心をもって、きょうも一歩を進めること──。

そうだ、今日も、自分のできる努力を一つ一つしていくこと。

そして、明日も、あさっても。

そうやってるうちに、気がついたら、どん底の時期はいつの間にか通りすぎていて。

つらかったあの時期は、過去のひとこまになっている。

思い描いていた明るい未来が、いま、になっている。

大川隆法先生のこの力強い言葉を信じて、毎日、努力していけば、絶対にそうなる。

そうなっていく。

そう間違いなく保証できると私は強く確信しているのです。 

 

幸福の革命ー心の力が未来を変える (OR books) 『幸福の革命』

 大川隆法著


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「生長の家」って宗教団体の政治思想、昔はよく極右みたいに言われてたと思うんだけど、なんだか最近、宗旨換えしてるって、ほんとうなのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『生長の家 創始者 谷口雅春に政治思想の「今」を問う』(幸福の科学出版)のまえがきで、次のように述べておられます。

 久々に、生長の家創始者・谷口雅春師より霊言を頂くことになった。政治問題で、生長の家が極右から環境左翼へと“ポール・シフト”し、「日本会議」からも手を引いて、安倍政権ら、保守政党にも反対を表明した。三代目総裁・雅宣氏の思想が唯物論・無神論に近いことは、かなり前に生長の家を離れて行った人たちからヒアリングしていた。“唯神実相哲学”が、“唯物論的環境左翼”に変わって、“朝日新聞信奉教”に変節して、はたして宗教として継続しえるのか、ここ数年、気がかりではあった。
 ジャーナリスティックにも関心が集まっている話題なので、今回あえて、取り上げてみた。当会は生長の家の数倍から十倍以上の実勢力を持っているので、生長の家の混乱に乗じようとしているわけではない。ただ、創始者の本心を伝えたいと考えた次第である。
(3~4ページ)

極右から環境左翼へと“ポール・シフト”した。

“唯神実相哲学”が、“唯物論的環境左翼”“朝日新聞信奉教”に変節して、はたして宗教として継続しえるのか。

創始者の本心を伝えたいと考えた──。

「生長の家」という宗教団体は、少なくとも38年前に幸福の科学が活動を開始した頃は、新宗教の雄とも言うべき教団の一つでした。

極右かどうかは別にして、保守的な思想を掲げた政治運動を行なっている団体だと思ってました。

ところが、この間、いつのまにか、その思想は大きく「変節」していたわけです。

初代で創始者の谷口雅春師は、どのような前世を持った方だったのか。

そして、この「生長の家」の現状を、いま天上界からどう見ておられるのか。

興味は尽きません。

まずはご一読をお勧めしておきたいと私は思っているのです。

 

『生長の家 創始者 谷口雅春に政治思想の「今」を問う』

 大川隆法著


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言葉って、気をつけなきゃいけないんだよね。でも、分かっていても、口が悪いの、やめられないんだ。どうしたらいいの? なーんて悩み抱えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『大川隆法 初期重要講演集 ベストセレクション2 ー人間完成への道ー』(幸福の科学出版)に収められた御法話「八正道の再発見」で、こう教えておられます。

 自分の言葉を点検するための、いちばんいい方法があるのです。それが何であるかというと、言葉を発したあと、相手から視線をそらしてはいけないということです。自分が発したあと、相手は必ず受け止めます。それは一秒もかからない時間で受け止めますが、必ず表情が動きます。何らかの表情を示します。それはプラスであるかマイナスであるか、明るく出るか暗く出るか分からないが、自分から発せられた情報を、必ず、相手というものは受け止めます。それに対する反応が出る。(中略)
 自分がいい言葉を発しているか悪い言葉を発しているかを知りたかったら、「しゃべったあとに相手の顔をじっと見る」、そういう習慣があるかどうかを見ればいい。見る習慣がなければ、悪いことを言っている可能性はかなり高いのです。悪いことを言うと、本能的に相手の目を見られないのです。相手を傷つけることを言うと、まともに見られないのです。必ず目をそらしたくなります。
 ゆえに、言葉を話すときに、話したあとでも相手の表情を見続けることができる、フォローすることができるような、そういう言葉をしゃべることです。(中略)
 今、正しい言葉の「点検の基準」をまず言っているのです。家に持って帰って夜中に反省するだけが、正しい言葉の反省ではないのです。出した瞬間に分かる。「出した瞬間に、相手の目を見続けるような自分でありなさい」と言っているのです。相手の表情の変化を見られるような自分でありなさい。(中略)これが「正語」です。
(227~230ページ)

家に持って帰って夜中に反省するだけが、正しい言葉の反省ではない。

言葉を出した瞬間に、相手の目を見続けるような自分でありなさい。

これが、自分の言葉を点検するための、いちばんいい方法である──。

言葉の反省というのは、反省法の基本の一つだと教えていただいています。

そして、大川隆法先生はこんなふうに、誰でもできる形で、分かりやすく教えて下さってたんですね。

自分は、言った後にいつも相手の顔を見れてたかというと、いやあ、自信がありません。

よし、さっそく明日から努力して、注意して、実践してみよう。

そう強く私は決心しているのです。

 

大川隆法 初期重要講演集 ベストセレクション2 ー人間完成への道ー (OR BOOKS)

『大川隆法 初期重要講演集 ベストセレクション2
 ー人間完成への道ー』

 大川隆法著


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悪魔って言葉を聞くことがあるんだけど、そんなの、ほんとうにいるの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『沈黙の仏陀』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 肉体生活に基づいて、心と肉体の調和が妨げられることによって、魔が立ち現れてくるような現象に見舞われることも真実ですが、いわゆる三次元世界を超えた霊界において、魔と言われる霊的存在がいることも事実なのです。この両方が、実際はほんとうにあるのです。
 主体性を持って生きている人間としての自分に原因があって、魔を引き込むという現象を、「己心の魔」といいます。己れの心のなかに住んでいる魔です。
 要するに、自分自身の心と肉体の不調和という、魔に同通する原因が己れ自身の心のなかにあることも真実ですが、それに呼応するかたちで、まるでカンテラに相照らすかのように、外部から、すなわち四次元の霊界(地獄界と言ってもよい)から、迷いを増幅させ、悟りを開こうとしている者を迷わせ、狂わせようとする現実の勢力があることも事実なのです。私はこれを発見しました。
 また、通常の人間であれば、心が迷ったり苦しんだりしたときに、不成仏の死者の霊、悪霊が取り憑いてきて、その人の身体をもっと悪くさせるとか、あるいは神社仏閣巡りをしていて、狐、狸等の動物霊に憑依されるというような現象はよくありますが、仏道修行をしている人、「悟りを開こう。宗教的指導者になろう」と心がけている者のところには、「悪魔」と言われる、それ相応のものが現われてくるという現象が現実にあります。
(237~240ページ)

人間としての自分に原因があって、魔を引き込む現象を、「己心の魔」という。

そして、それに呼応するかたちで、四次元霊界(地獄界)から、迷わせ、迷いを増幅させ、狂わせようとする勢力がいるのも事実である。

仏道修行をしている人、悟りを開き、宗教的指導者になろうと心がけている者のところには、「悪魔」と言われる、それ相応のものが現われてくる現象が現実にある──。

「悪魔」とは、「悪霊」よりも悪質で、積極的に悪をなそう、この世に悪を広げようとしている地獄霊のこと。

悪魔は、世界中のいろんな宗教で共通して語り継がれていますが、本当に実在するわけです。

そして、幸福の科学は、「仏」をいただいた真なる救世団体であるのだけれど、だからこそ悪魔がなんとか邪魔をしようと立ちはだかってくるので、常にこの勢力と戦い続けている。

これが、一部のネット世界で、幸福の科学に対して悪口雑言を書き並べているブログやXや動画などが流行っている、大きな理由の一つなんだと思います。

でも、世の常識あるみなさんに、理性的に中身を読み比べて検証していただければ、何が正しくて何が間違っているかを、最後は必ず分かってくださるものだ、と。

そう素朴に信じて、延々とこのブログを私は書き続けているのです。 

 

沈黙の仏陀ーザ・シークレット・ドクトリン (OR books) 『沈黙の仏陀』

   大川隆法著


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あー、やだやだ。毎日毎日、お掃除とか洗濯とかばっかり、いやだなあ・・・。なーんて悩んでる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『信仰告白の時代』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 釈尊の弟子には、頭のよい人、身分の高い人や低い人など、いろいろな人がいましたが、なかには「こんな人が?」というような弟子もいたのです。なかでも、頭が悪いことで有名な弟子の一人に、周利槃特(しゅりはんどく)という方がいました。これ以上、頭の悪い人はいなかったのではないか、ということで有名な方です。(中略)
 釈尊は「周利槃特よ、ちょっと来なさい。おまえは難しい説法はさっぱりわからないようだから、一つだけ教えてあげよう。ここに箒(ほうき)があるから、この箒を持って庭を掃きなさい。落ち葉を掃いたり、ごみを掃いたりしなさい。そのときに、『塵を除かん。垢を除かん』とくり返し言いながら、箒で掃いていきなさい」と教えたのです。
 箒を持てば、する仕事ははっきりしています。落ち葉を除いたり、ごみを掃いたりするだけです。そこで周利槃特は、「掃除をするんだな」と思って、それを続けているうちに、「ああ、人間も同じなんだ。心のなかにある塵や垢を除くことが大事なんだ」と悟ったのです。
 そこで、釈尊は「よく悟ったね。おまえは難しい教えはさっぱりわからなかったけれども、心の塵や垢を除くことが大事だという教えを悟った」と言ったわけです。
 これは、教学をいろいろと一生懸命やっていた弟子よりも、むしろ周利槃特のほうが悟りが早かった──という話です。周利槃特は「阿羅漢になった」と仏典には遺っています。
(134~138ページ)

有名な周利槃特の逸話。

お掃除は、宗教的には「作務(さむ)」って言いますけど、これを続けただけで「阿羅漢(あらかん)」の悟りに至った、歴史に名前の残る仏弟子の話です。

「阿羅漢」というのは、仏道修行で心が澄みきって、守護霊と同通し、後光が出る段階ですから、普通の修行者が生涯の目標とするような高いレベルの悟りです。

「そうじ力」を説く方もいますけれども、お掃除(「作務」)の力って、ほんとにバカにできないですよね。

いや、そのレベルをはるかに超えて、お掃除(「作務」)というのは、実はすごい力を持っているのだ、というお教えなんだろうと思います。

よし、新人たちが入ってきた春なんですから、毎朝、自分の机とかくらいは拭き掃除してから一日をはじめようと、改めて私は思っているのです。
 

信仰告白の時代ー智慧と慈悲の新世紀を拓く 『信仰告白の時代』

 大川隆法著


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昨日は、韓国で大型フェリーが沈没した事故から10年だったんだってね。あれって、やっぱりただの事故だったの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『広開土王の霊言 朝鮮半島の危機と未来について』(幸福の科学出版)で、朝鮮・高句麗の王として有名な広開土王の言葉(「霊言」)を、インタビュー形式で次のように紹介しておられました。

広開土王 だけど、今、(韓国の)豪華客船が転覆したことで、急に「三流意識」が出てきて、反省の“あれ”が出てきつつある。「国際的に恥ずかしい」っていう感じが出てきてはいるんでしょう。強がりを言ってるのが、少し引っ込むところがあるんだろうから。(中略)
 まあ、本当は、(北朝鮮が)軍事演習をだいぶやってるからね。ミサイルは撃ってるし、原爆の実験みたいなのもやってるし、あとは、また砲撃をやったり……。
 だから、あの船も、もしかしたら、「特殊潜航艇とか何かで沈めにきたんじゃないか」とも言われている。
里村 はい。そうですね。
広開土王 私も、その可能性はかなり高いと思う。というか、まあ、はっきり言やあ、(北朝鮮が)やったんじゃねえかと思ってるんで。
小林 おっとっとっと。
里村 「やった」?
広開土王 ああ、だって、標的は大きいし、速度はのろいし、軍事演習にはちょうどええ。今、威圧してるところやからね。ミサイルを撃つと、もったいないし、けっこう一発で、何十億とかするからね、下手したらねえ。(中略)
 もうちょっと“安い”わね、客船を沈めるのは。もうちょっと“安い値段”で沈められるわなあ。
小林 もしかして、韓国の政府は隠していますか?その情報を。
広開土王 うん。たぶん隠すと思うな。(中略)
 うん、それは発表できんわねえ。「沈められた」って。(中略)「高校生たちがいっぱい乗ってるのを沈められた」っていうことであったら、知ってても発表できない。「事故」ということにするわね。
綾織 政権がもたないですね。
(174~177ページ)

はっきり言えば、北朝鮮がやったのではないか。

韓国の政府は、知っていても発表できず、事故ということにして、隠すだろう──。

発言内容をよくよくみれば、「可能性はかなり高い」、「やったんじゃねえかと思ってる」、「たぶん隠すと思う」というように、たんなる推定になっています。

しかも、この話題は、インタビューアの質問によるものではなく、韓国という国家について対話しているなかで、突如として、広開土王のほうが言及した流れになっています。

広開土王といえば、以前大ヒットしたテレビドラマ「太王四神記」で描かれた、韓国の有名な英雄です。

ところが、“霊界からみた真相はこれだ”という話ではなく、地上にいる人間と同じような推定発言をしているだけというのは、どう理解すればいいんでしょうか。

2014年4月に発生したこのセウォル号の沈没事件は、自分だけ真っ先に逃げ出した船長をはじめとする乗員らの刑事責任を問う裁判は終わり、原因が本格的に調査されることもなく、いつのまにか幕引きされてしまったようです。

この事件、大きな謎が残っていると思えてなりませんが、今日のところは、あの広開土王が、どういった霊界に還っているのかいま一つハッキリしない、こんな霊言をしていたことを、ご紹介するにとどめておこうと私は思っているのです。
 

『広開土王の霊言』

 大川隆法著


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上司とうまくいかなくて、なんでこんな上司にあたったんだろう、もう会社なんか辞めてしまおうか、なーんて悩んでる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『「幸福になれない」症候群』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 上司とうまくいかない原因の一つは、我の強さにあります。
 あなたはあまりにも我が強いのではないでしょうか。「会社というところは、個人の人格を認めるためにあるのではない」ということを、あなたはまず知らなくてはいけません。会社は、組織として生き残っていくことや、さらなる発展を目指すことを目標としているのであり、あなたの自己主張を認めるためにあるわけではないのです。(中略)
 もう一つ言えるのは、「人を裁く傾向のある人が上司との対立を招きやすい」ということです。こうした人は、自分のなかに「強きをくじく性格」がないかどうか、よく考えていただきたいのです。(中略)
 強きをくじく性格のなかに、実は自分自身の劣等感があることを知らなくてはいけません。どこか魂のなかに傷ついた面があり、強い者を見ると負けそうな気がするため、なんとかしてそれをはね返したい気持ちが起きているのです。
 それは、どこかで挫折や失敗をした経験があり、その記憶がにじみ出してきているのでしょう。「自分より優れた者を認めたくない」という気持ちがあるのです。
 しかし、そうした気持ちは、その人の向上には決してつながりません。そうした性格の人は決して偉くなることはないのです。
(223~228ページ)

上司とうまくいかない原因の一つは、我の強さにある。

会社は、組織として生き残っていくことや、さらなる発展を目指すことを目標としているのであり、個人の人格を認めるためにあるのではない。

また、人を裁く傾向のある人が上司との対立を招きやすいが、強きをくじく性格のなかに、実は自分自身の劣等感がある──。

要は、まず自分に問題がないのかを、一度じっくりと振り返ってみるのが大切なんだと思います。

そして、自分の心の中を見つめ、「我」や「劣等感」を発見して、これをなんとか直したいと思ったとき。

それはつまり、自分が「幸福になれない」症候群におちいっていたのだと気づくことができたときであるわけです。

本書で大川隆法先生のお教えを学んで行ったとき、出世の道があなたの目の前に広がることになるのだろうと私は思っているのです。 
 

「幸福になれない」症候群ーグッドバイ ネクラ人生 (OR books) 『「幸福になれない」症候群』

 大川隆法著


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幸福の科学の大川隆法先生は、3150冊を超える書物を世に発表しておられると言います。なんで、そんなにたくさんの本を出す必要があるの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『幸福の科学の十大原理〔上巻〕』(幸福の科学出版)で、次のように教えておられます。

 矢継ぎ早に次つぎと書物を出している理由はいったいどこにあるか。(中略)
 この世の中の価値基準を転換するためには、真理の書を一冊でも多く、一人でも多くの人の目に触れさせる必要があるわけです。(中略)

 法は、いつの時代にも説かれるわけではありません。
 しかし、法が説かれるときには、
 その時代の人びとだけではなく、
 千年後、二千年後、三千年後の後代の人びとをも
 悟らしめるだけのものを残していかねばならないのです。
 数々の書物を世に問うていますが、
 私が予想している読者は、みなさんだけではないのです。
 百年後、私の命は地上にはありません。
 しかし、百年後の人たちをも悟らしめることも、私の仕事なのです。
 五百年後には、どのような世界が展開しているでしょうか。
 しかし、世の中がどのように変わっても、心の法則だけは不変です。
 真理は不変であります。
 私たちは、変わりゆくものを伝えることが仕事ではないのです。
 変わりゆく世界のなかにおいて、
「変わらざるもの」「不変なるもの」を知らせることが、
 私たちの使命なのです。
(234~236ページ)

この世の価値基準を転換するために、真理の書を一冊でも多く、一人でも多くの人の目に触れさせる必要がある。

法はいつの時代にも説かれないので、法が説かれるときには、その時代の人びとだけではなく、後代の人びとをも悟らしめるものを残さなければならない。

変わりゆく世界のなかにおいて、「変わらざるもの」「不変なるもの」を知らせることが、使命なのである──。

二千五百数十年前にお釈迦様は、八万四千の法門を説かれたと言います。

この「八万四千」という数字は、数限りない教えをあらわしているとよく言われます。

そして、再誕の仏陀(お釈迦様が生まれ変わったかた)として、大川隆法先生は、この日本の地においても、インドのときと同様に、まさに数限りない教えを説き続けておられます。

その教えが活字に起こされ、書籍としてまとめられた結果として、今ではなんと3150冊を超える書物群となって刊行され続けているわけです。

これは当然のことながら簡単なことではなく、とてつもなく大変なことだと思います。

でもそれは、今の時代の人びとだけでなく、数千年後の後世の人びとをも救うため。

さまざまな分野でさまざまな角度から、一つでも多く、魂の糧となる教えを遺していくため。

大川隆法先生のこの崇高な志(こころざし)に導かれて、数限りない人びとが、幸福の科学に集ってきているのだと私は思っているのです。
 

幸福の科学の十大原理(上巻) ーエル・カンターレ「教えの原点」ー (OR BOOKS)

『幸福の科学の十大原理〔上巻〕』

 大川隆法著


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なんで、あの人は、あんなに美人でスタイルがいいの? なんであの人は、あんなに頭がいいの? なんであの人の家は、お金持ちなの? あーあ、それに比べて、私って、おれってなあ・・・なーんて考えて、落ち込んだりしてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『永遠の仏陀』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

おまえたちは、いたずらに他の人をうらやんではならない。
その人が、たまたま、いい家に生まれたとか、
その人の両親が、たまたま優秀であったとか、
その人が、たまたま都会に生まれたとか、
その人の兄弟が、恵まれた経歴を持っているとか、
その人の肉体が、たぐいまれなる美しいものであるとか、
このようなもので、心を嫉妬で曇らせてはならない。
人には、それぞれの過去があり、
過去、積み上げてきたものがある。
そのすべての結果が、現在というものに表れているのだ。
他の人の人生に取ってかわることはできないのだ。
自分は、自分の人生を生きなければならないのだ。
おまえたちが心しなければならぬことは、
自分の名前で他人の人生を生きることではなく、
自分の名前で自分の人生を生き切るということなのだ。
自分の人生は、自分以外には、生きてくれる人はいないのだ。
それを大切にしなくてはならない。
自分の名前を大切にするように、
自分の人生を大切にしなくてはならない。

他の人とその身を置きかえたところで、
いかばかりの幸福感があるであろうか。
人には、それぞれの悩み、苦しみもあるものだ。
それらの人々の幸福なる点のみを見て、
悩みや苦しみを見ていないのが、
自分の、その迷いの姿であるのだ。
他の人のよいところのみを見て、
それを、おのが惨めさと引き比べてはならない。
あなたが、あなた自身をいかに低く評価しているとも、
他の人のなかには、それを高く考えている者もいる。
このように、すべて、お互いの目からは、
物事は相対的に見えるということを忘れてはならない。
(79~82ページ)

うーん、とってもありがたい教えです。

自分の名前で他人の人生を生きるのではなく、自分の名前で自分の人生を生き切ること、なんだ。

こんな自分ではあるんだけど、でも、いただいたものに感謝しながら、がんばってみよう。

今日は、改めてそう私は思っているのです。
 

永遠の仏陀ー不滅の光、いまここに 『永遠の仏陀』

 大川隆法著


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どうすれば神さまに会えるんだろう? 長く信仰してるんだけど、姿は見えないし、会うこともできないのは、なんでなの? なーんて思ってる人はいませんか?

幸福の科学の大川隆法先生が、イエスさまの言葉について初期の頃に解説された、『幸福の原点』(幸福の科学出版)の一節を、今日はご紹介します。

 「心清き者は幸いである。汝らは神を見るであろう」、このイエスの端的な言葉、これがすべてです。
 私は、「反省をして心の曇りを取り除いたならば、天上界の光がさんさんとさし込んできて、四次元以降の世界と同通し、守護・指導霊とも話ができるようになる」ということを説いています。これは理論的にはそのとおりですが、この実際のあり方は、実に二千年の昔にイスラエルの地でイエス・キリストがすでに教えているとおりなのです。(中略)
 では、心を清くするためには、どうすればよいのでしょうか。それは、まず自分の間違った思いを修正していくことではないでしょうか。仏神のよろこばないような思いを持った自分であるならば、それを反省することではないでしょうか。また、間違った行いをしたときには、それを深く詫び、懺悔することではないでしょうか。それが、心清くあるということではないでしょうか。
(121~122ページ)

「心清き者は幸いである。汝らは神を見るであろう」という、このイエスの言葉がすべてである──。

自分が間違った思いを持ったら、それを反省して修正すること。

間違った行いをしたときには、それを深く詫び懺悔すること。

そうやって、心清くあること。

心清くあり続けることができたとき、必ず神さまに会うことができると、大川隆法先生は教えられるんだと思います。

そしてこれは、キリスト教においても、仏教においても、そして幸福の科学においてもまったく正しい、霊的真実であるということなんだとも思います。

でも、あるときだけ心清くあれたとしても、その清き心境を維持し続けるって、本当に難しいですよね。

結局は、日々の努力しかないんだなあと分かった気がして、今日、改めて心新たに、私は思っているのです。
 

幸福の原点 ―人類幸福化への旅立ち― 『幸福の原点』

   大川隆法著


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夢ってもってたりする? 将来なりたいものとか、やりたい仕事とか、目標にしてる人っていうのは? それとも、なんだかつまんないなあと思いながら、日々がすぎてるだけだったりするのかなあ?

幸福の科学の大川隆法先生は、『太陽の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 人生には、夢が必要です。(中略)
 夢をいだくとは、できるだけすばらしい人生の設計をするということです。(中略)
 夢をいだく効用は、単に設計図をつくるだけではありません。それには、ひとつの神秘的な作用があります。夢とは、持続する心のビジョンです。それは必ず、あの世、すなわち、実在界の守護・指導霊たちに通じます。実在界の守護・指導霊たちも、つねづね、どうやって地上界の人々を守護・指導しようかと頭をいためているのです。ところが、地上生活している人たちは、どの人も、この人も、うたかたの想いばかりが心に去来して、なんらしっかりとした人生の指針をもっておりません。どのように自分は生きたいのかについてさえ、確固としたものをもっていないのです。
 こういう人に対しては、一体どのように守護・指導ができるのでしょうか。生きている人間を根本から教え込むということは、この世の人間の主体性を失わせます。あの世の守護・指導霊がやってよいことといったら、生きている人間に、インスピレーションを与えることぐらいです。通常は、それがすべてなのです。
  しかし、しっかりとした夢をいだいている人ならば、その人の夢がどうやったら実現できるかを、守護・指導霊は考えていればよいし、それにそったインスピレーションを与えればよいのです。ですから、しっかりとした夢をいだき、夢を描いていさえすれば、あの世の守護・指導霊たちの援助を受けて、実現できる可能性が高いといえます。
(322~327ページ)

夢をいだくとは、できるだけすばらしい人生の設計をするということ。

また、夢をいだくことには、ひとつの神秘的な効用がある。

夢とは持続する心のビジョンであるから、しっかりとした夢をいだけば、それは必ず実在界の守護・指導霊たちに通じ、その援助を受けて、実現できる可能性が高い──。

なーんだ、まずは「人生の夢を描くこと」が、成功の人生の出発点だったんですね。

知ってしまえば簡単なことだけれど、でも、自分だけで気がつくのは、とってもむずかしい。

こうやって教えていただいて初めて分かる、大事な大事な人生勝利の秘訣じゃないでしょうか。

そう、今からだって遅くありません。

青臭いなんて言わず、大きな夢を描いてみましょうよ。

そして、これを機に、天上界で支援してくださっている私たちの守護・指導霊に、真摯な感謝の思いを捧げたいと私は思っているのです。
 

太陽の法 ―エル・カンターレへの道― (OR books) 『太陽の法』

  大川隆法著


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宗教同士で争ってるでしょ。戦争の背景には宗教があるっていうし。神さまや仏さまが本当にいて、教えが降ろされたんだったら、なんで、宗教同士で争うの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『フランクリー・スピーキング』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 宗教のもと自体は、かなりホンワカしたものだし、そう体系化されたものではないのだけれども、弟子筋が体系化していくうちに、やはり都合の悪いことはだんだん切っていって狭めていくので、あとがたいへんなんですね。都合のいいほうに解釈しはじめるので、情熱ゆえにそういうこともあるんですけれども、あれが辛いですね。さまざまな宗教の歴史を見ていると、いろいろと争いが多いですね。だから信仰しない、という人も出てくるぐらいですが、ずっと見てくると、結局、理解力の狭さみたいなものが、ほとんどの原因のように感じるんです。(中略)
 いま現在進行形で幸福の科学をしていても、私はかなり幅広い話をするんですが、しかし弟子たちは、やはりその理解能力に応じてしか理解できないんですね。自分に都合のいいところというか、わかるところは一生懸命言うけれども、それ以外になると、知識としては入っているのですが、やはり魂のほうには入らないんですね。これでは、時代を下れば一緒だなあ、というのはやはり感じますね。
 どうしても、立体的なものの考え方というのは、なかなかできないんですね。たとえば、神の子というか光の天使みたいな人だったら、平和を愛する愛の心で生きている、こういうことがありますね。「人を許す」という考えが一方にあるでしょう。ところが他方には、たとえば軍事的な英雄というのがいるでしょう。これも全部が悪人ではなくて、やはり神から送られた英雄、戦いの神というのがいるんです。すると、どうなるかというと、もう弟子はとたんに理解できなくなるんですね。私は両方説明できるけど、弟子は両方はわからないんですね。こうなるんです。(中略)
 だから、神の光というものは、幅広いものを含んでいるんだけれども、理解力のほうに限界があって、やはり自分に合わせて神様を信じる傾向がありますね。まあ、これは辛いけれども、しかたがないね。勉強してもらって、認識力を上げてもらう以外に道がないんですね。
(170~172ページ)

宗教は、弟子筋が体系化していくうちに、都合の悪いことをだんだん切って狭めていく。

宗教に争いが多いのは、立体的なものの考え方ができない理解力の狭さが、ほとんどの原因である。

これは、勉強してもらって認識力を上げてもらう以外に道がない──。

神仏の教えは、ものすごく幅広くって、高くて、深さもある。

だけれども、これを私たち人間が、自分の狭い理解力で後世に伝えてしまうことに、宗教の争いの根本原因があるってことです。

とするならば、もっともっと勉強を重ねて、天上界のお教えを、そのまま立体的に曲げずに理解できるようになりたいものだと、心から私は思っているのです。
 

フランクリー・スピーキングー世界新秩序の見取り図を語る 『フランクリー・スピーキング』

 大川隆法著


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